我的杯子に詰め込まれた我的輩子の話です。

会ったことのない人について

どうしてもっと早く気づかなかったのかと思うことはよくある。

私が生まれる前に亡くなっていた祖父は夕張炭鉱で働いたことがあると、父から何度も聞いたことがあったのに、どんな人であったのか、なぜ夕張へ行ったのか、どのくらい滞在したのか、どんな仕事をしていたのか、考えたことはなかった。父の話は、そこから一気に、青春時代の親子の葛藤へ飛んだから。

父の話は混沌としていて、人さらいに騙されて16歳で夕張に連れて行かれた。記者だった祖父は騙されて炭鉱に連れて行かれた。アイヌの人が親切にしてくれた。炭鉱から抜け出す時もアイヌの人に匿ってもらった。そんなお伽話もどきを、家族はたいして気にしなかった。私は、数日前にようやく祖父の名前を知った。それも、ひと月近く前に母に尋ね、聞いたことがないと言う母から父に尋ねてくれるように頼んでおいたことだった。聞いたことがないのか、忘れたのか、その境目は曖昧で、それを追求しても意味がないほど、時間を重ねてしまった。

数日前、父はこう言った。親父は若い頃に夕張炭鉱で働いて、頑張って課長まで昇進した。新潟の女性と結婚して、〇〇(故郷)に戻り、桶屋をやった。家と土地は、おふくろのミシンを売って30円で買った。あの頃、ミシンは〇〇では珍しかった。弟子も3人おった。葬式でも嫁入り道具にしても桶屋がおらんにゃどうしようもならん。

すると、炭鉱夫ではなかったのか。記者でなかったのは確実だ。アイヌはどうなんだろう。祖父の家は北海道とは縁がなかったはずで、当時、アイヌという言葉はどこから出て来たのだろう。アイヌは、昭和の初めには道外の庶民も知る存在であったのか。この話のおかげで、父は会ったこともないアイヌに対してとても好意的だ。アイヌのことは、何も知らないし、知ろうともしない。

ミシンが30円で売れたという話は変わらないが、祖父の生年月日は誰も覚えていない。祖父の生年月日を知りたいと叔父に尋ねたら、それはわからないが、戒名ならわかるよと言われた。まったく、お前以外に先祖に興味を持ってくれる子がおらん、とも言われた。いえ、たぶん、先祖への興味の方向性が違うと思う。私が知りたいのはあの時代を生きた祖父のことで、息子を2人持つ叔父叔母の脳裏には墓の継承の悩みがある。

祖父が学校に行ったのかどうかも、我が家ではもうわからない。ただ、戦争には行っておらず、地元の消防団の団長をしていたと、父が言う。空襲があると半鐘台に上がっていたと言う。それが団長の仕事なのか、私にはわからない。戦時中は警防団だったのでは、という疑問に答えてくれる人はいない。戦前生まれであっても、父の記憶の大半は戦後にある。

夕張市に聞くと、従業員名簿は会社にはあるのかもしれないけれど、どこで調べたらよいかわからないとのこと。祖父の故郷があった市役所で聞くと、戦前であれば戸籍の記録も残っていないかもしれません、かなり厳しいですねとのこと。

孫娘が、沖縄や九州や台湾の炭鉱の話を聞いて、見て、読んで、ようやく少し理解した頃、記憶も記録も消えかけている。ただ、自分のルーツのどこかに炭鉱が関わっていたかもしれないという小さなエピソードが、私の人生に加わった。