我的杯子に詰め込まれた我的輩子の話です。

父がきんぴらを作った日

最近、心が重くなるニュースが続いているせいか、時々思い出す光景があります。

高校1年生の夏、近くに住んでいた叔父が30代で亡くなりました。わりと大きな交通事故で、叔母と1歳と5歳の子供たちを残して逝きました。一家は風呂なしのアパートの2階に一間を借りて住んでいました。

足が悪くて叔母夫婦の家に行ったことがなかった祖父も、一大事とばかりに杖を突いて狭い階段を上って部屋に入りました。たまたま休みだった父は、その日、初めてきんぴらを作っていましたが、ガスコンロを止めて駆けつけました。いったい誰からどのルートで連絡が入ったのか、誰も振り返る余裕がなく、けれども、他県で事故に遭った叔父の遺体が戻って来るまで何かできることもなく、いつ戻って来るかわからないのでお坊さんを呼ぶこともできず、仕事帰りに3人亡くなったのだから会社が合同葬儀をすると言うので葬儀屋の手配をする必要もなく、皆手持無沙汰でざわざわする心を抑えきれず、時間を過ごしたように記憶しています。私は、祖父とともに1歳と5歳の傍にいました。

叔父が戻って来るより何時間も前のこと、夕方まだ明るい時間に、某新聞社の記者という男性が二人、アパートの前でそわそわしていた父に声をかけてきました。名刺か何かを見せられた父は、泣きそうな大声で追い返しました。興味本位で書き立てるな、お前らに関係ない、帰れ、そんな言葉が聞こえてきました。私は少し離れた場所から、ぼんやり父の背中を見ていました。相手が何か言おうとしても聞き入れず、すごい剣幕で追い返しました。

翌朝の新聞に小さな記事が出たようですが、遺族については何も書かれていなかったと思います。その後、近所の人は事情を知っているけれど、比較的静かな環境で子供たちは成長しました。校区の中には父親不在の理由を知らない人もいて、我が子のように子どもたちの面倒を見ていた父が中傷されたこともあったようです。保険が下りようともパート収入しかなかったシングルマザーの家庭はそれなりに困ることもあったらしく、共産党系の議員を訪ね、手続き等で助けてもらったそうです。以後は、共産主義者社会主義者も大嫌いな父が、その議員にだけは絶対の信頼を置くようになりました。

あの時、記者の取材を受けていたら、子どもたちや私の家族はどんな風に書かれていたのだろうと、時々思います。あの時私は、父がもう少し穏やかに応対すればよかったのに、と思っていました。取り乱した父の姿は、あまり見たいものではありませんでした。ただ、今は、乱暴に追い返してくれてよかったと思っています。父の後ろ姿と取り乱した声は、彼なりに家族を守る行為だったと思います。

葬儀が終わって親類が帰り、ようやく我が家で眠ろうと帰宅した両親は、なぜガスコンロに蓋をしたままのフライパンがのっているのか、思い出せませんでした。真夏、締め切った台所で3日を過ごしたきんぴらは、フライパンごと捨てたくなる状態で発見されました。両親はあまりに疲れていたせいか、娘が毎晩自宅に戻っていたことには思いいたりませんでした。※あの日、昼間外出していた娘は、父がきんぴらを作っていたことを知りませんでした…。