我的杯子に詰め込まれた我的輩子の話です。

ミシンの行方

父の実家にあったという古いミシンの話。

父がミシンの写真にこだわっていると聞いた叔母が、亡くなった義姉の遺品の中から古い写真を探し出し、焼いて送ってくれました。叔母は、大正か昭和の初めくらいで、赤ん坊は北海道から連れ帰り、間もなく夭折した長男か、あるいはその後に生まれた次男だろうと言いました。私にとって祖母にあたる人が背にしていたのは、昔の足踏みタイプのシンガーミシン。父が言っていた「四畳半もある大きさ」ではないけれど、子供には大きく見えたのかなと思い、父に見せました。

父は、感動も何もなく、「違う」と一言。聞けば、この家庭用のミシンは「四畳半もある大きなミシン」をM病院に売った後、新たに買い直したものとのこと。M病院に売ったのは父が生まれる前のことだったそうです。そして「四畳半ミシン」はM病院から父が通う小学校の洋裁室に寄贈され、ガラス張りの展示ケースに入れられていたそうです。父はそれを「これがうちのミシンか」と思って誇らしく眺めたそうです。残念ながら、9人もいた兄弟姉妹は一人ひとり鬼籍に入り、今は父が最年長。昔のことを語れる人は他にいません。

四畳半の大きさのミシンなんて、本当に実在したのか。それさえもわかりませんが、父の故郷の郷土史をめくってみたら、意外なことがわかりました。

まず、今では廃業されて跡形もないM病院は、当時は実在していました。それから、父が通った小学校は、戦後、社会人教育も担っていたようで、父が4年生から6年生の間に家政科が設置され、専用の教室が用意されたとのことです。これだけでは四畳半ミシンが実在したのかわかりませんが、実在しなかったという証拠もありません。今は廃校になったその小学校は、地元企業がコワーキングスペースとして利用しており、教室の間取りも変わって昔の面影はないそうです。

こうして、モノや思い出は姿を消していくのか。作られ、運ばれ、使われて、やがて部屋の一角に置かれて誰もその前で足を止めなくなった頃、どこかに追いやられていくのでしょうか。

住宅ローンのこと

仕事がひと段落ついた昨年あたりから、それまで見直す余裕のなかった保険を整理し、住宅ローン完済に踏み出そうと思いました。もともと10年間の控除が終わったら早めに完済したいと思っていたのですが、ネットで調べると「一括返済はお勧めしない」説が大半でした。ただ、退職金で返すことを前提にした話だったり、私より若い世代の夫婦なら教育資金もかかりますよ、という話だったりで、「私の場合」に近いモデルは見つかりませんでした。ずっと以前に銀行に打診した時も「よくよく考えてください」と牽制されていました。何がそんなに拙いのかわからないまま、とりあえずローンを借りている銀行のご意見を聞きに行くことにしました。

案の定、担当者は「お勧めしません」との返事。一時的な手元資金の減少だの、団信だの、ネットでよく書かれていることを並べた後は、物価上昇率2%の時代にそれより低い金利はお得だと言われました。

では、そういう条件は私の場合に必要でしょうかと、家族構成や仕事、定年後の予定等をある程度提示して、銀行員に聞きました。手元資金、どうにかなりそう。団信のメリットは、ローン完済すれば関係ない。物価上昇2%の時代にそれより低い金利はお得という考えは、経済学的にはその通りかもしれないけれど、何かしっくりきませんでした。若い女性の担当者は私の話を聞いた後で、「完済も選択肢かもしれないけど、でも慎重に」とのこと。とりあえずもう一度考えますと言って立ち去ろうとした時、担当者の後方で話を聞いていた管理職の男性がやって来て、抵当権抹消手続きは銀行でも出来るけれど、10分の1くらいの費用で自分でできます、そちらの方がお勧めです、と言いました。この客は頑固そうだと思われたのかもしれませんが、私としては、低金利・物価高の時代だけど完済は必ずしも無謀な選択肢というわけではないと、言ってくれた気がしました。大いなる勘違いかもしれないけれど。ただ、管理職の男性と私はあまり年齢が違わない感じでしたので、この年齢になった時の住宅ローンの重みはわかってくれたのではないかと思います。

結局、当面の資金繰りがどうにかなるなら、そして、多少の機会費用(この先何が起こるかわからないので、あくまで期待値、予測に過ぎないと、エコノミストじゃない私は思う)は止む無しと今思えるのなら、払っちゃえ、ということで、一括返済しました。自分の判断です。

ネット上のアドバイスの脅し文句になっていた完済の手数料は、2万円余りでした。それに、他の金融機関から引き落とし口座に資金を移す際の振り込み手数料が1000円弱とその金融機関へ行くまでの交通費500円。

こうして悩んだ割には、引き落とし当日、銀行からメールで数行の完済通知が来ただけ。こんなにあっけなく、電気代の引き落としみたいにスムーズに、終わっちゃうのかと、拍子抜けしました。

年明け早々にやったこと

年末は、掃除や料理に追われることなく、猫や友人とゆったり過ごしました。

気になった時にちょこちょこと掃除をしていたこと、急がなくてもよい仕事は年明けにすると割り切ったこと、お節は作らず、昔ながらの市場で顔なじみになったお総菜屋さんで買いそろえたこと、年賀状を郵便局が受け付け始める日に投函すると決めて書き終えたこと。ほう、年末年始って、こんなにゆっくり時間が流れるのか。家猫も機嫌がよく、よく食べ、よく遊び、よく遊び、よく寝る。

タイトルの話はここから。昨年最後の資源ごみを出す日と出張が重なってしまったので、新聞と本の束を倉庫に積んでいたのですが、今朝、それらも処分しました。

捨てたのは20冊近い料理本。初めての一人暮らしは大学を出て就職した時でした。その頃に買った「料理の基本」的な1冊には、キュウリの塩もみや卵焼きの作り方、ハンバーグに肉じゃが、煮魚まで出ていて、家庭科入門みたいでした。とはいえ、普通のお料理本なので、パエリヤや手作りちらし寿司も出ていて、これ1冊あれば一生困らないような本。就職した最初の1年で、この本のレパートリーをすべて順番に作ってみて、「私、料理できるじゃん!」と変に自信を持ったことを覚えています。本を見ながらその通りに作れば、誰でも作れます。

その1冊から始まって、NHKの『今日の料理』が十数冊。お弁当やおつまみ、向田邦子のお料理本。並べてみると、お菓子に関する本はない。私の場合、逆立ちしてもお菓子は買った方が美味しいと経験的にわかっていますから、買わない。おつまみの本にいたっては、自分が飲酒しないので家で開いた覚えはなし。お弁当読本も、なるほど~と思って閉じる程度。中華料理の本だけは使い込んでいましたが、今ではいちいち調味料とか量らないし、創意工夫をしてもそれなりに味が決まるので、本は不要。ネットで調べれば、今どきの調味料や料理器具ごとに的確なアドバイスも書いてあるし、というわけで、昨年春にまとめて倉庫の奥に積んでみたところ、一度も引っ張り出す必要はありませんでした。

もうひとつ、数日前に、少し遅めの初詣に出かけた際に、家にあったお守りを、台湾で頂いた一つを残してすべて返納しました。昔から神社に行けばお守りを買うのが趣味でした。お守りは、私の不安の裏返し。すぐには捨てられなくていつの間にかポーチにまとめて入れるほど増えていましたが、こうなるとバッグの中で邪魔になるので持ち歩かなくなります。それで、昨年あたりから、鈴付きのお守りは猫のおもちゃになっていました。

いつかお守りマイブームが再来するかもしれないけれど、お守りを持っていても飛行機は揺れますし、失礼な人に当たることもありますし、酷い腰痛に見舞われることもあります。私の人生、生き様、これで上等、神様に頼る前に出来ることはまだある、といった感じでしょうか。自分の力を超えるものへの畏怖や祈りの気持ちは持ち続けると思いますが、それをお守りという形にしなくてもよくなったのかもしれません。何かが起きたらどうしようと怖がるのではなく、何かが起きても受け入れようと、今はそう思っています。

世の中は「こういうもの」じゃないと気づいた日

気づかないうちに躾けられていたり、これはこういうものだと信じ込んでしまうことは、誰にでもあると思います。

例えばパソコンのカーソル。小さい白い矢印は、どこに行ったのかわからない時があって、マウスをくるくる動かして画面でくるくる回るマークを探すことがあります。フリーズしているのかと心配したり、だからパソコン嫌い~と締切前には文句言ったり、ちょっとしたストレスでした。

最近、あるzoomセミナーで司会者が数倍に拡大したカーソルを使っているのを見て、ああすればいいじゃんって気づきました。セミナーの画面の大きなカーソルは、文字を2つ3つ隠してしまうほどの迫力でしたが、画面のどこにあるのかはよくわかる。黄緑の、今までよりも少し大きめサイズに変えると、とても快適になりました。

カーソルもそうですが、私はデフォルトや人の話で「基準はこれ」と考えがちです。

実は随分前から、猫のトイレ問題が密かな悩みでした。うちの猫は粗相をしたことはありませんし、同居し始めの体調が悪かった時期を除き、胃腸も丈夫で、毎日決まった回数トイレに行きます。下痢も嘔吐もありません。ただ、深堀タイプなので、まとまったものをバラバラに散らすことが多く、子猫の時はトイレの中で踏んづける時もあり(後から思うと、それほど回数は多くなかったけど、踏んづけそうに見えるのが私のストレスだった…)、他所に預けるのは気が引けていました。保護主さんに相談すると、「あら、困りましたね~。うちにも1匹深堀さんがいて、そんなに掘らないでって言うのにやるんですよね、もう!」と言ったものだから、私は「これはトイレの失敗なのだ」と思いました。猫飼いの友人宅に遊びに行った際もバラさないタイプの猫さんだったこともあり、「うちの子は面倒なのかも」という思いは強くなりました。

長期不在でやむなく猫をペットホテルに預けた時、そのことをかなり詳しくメモに書いて渡したのも、「普通じゃなくて手がかかる子」と思っていたからです。

とはいえ、成猫になると誤って踏んづけることもなく、従ってシャワーする手間も不要で、お世話は以前よりも楽になりました。

そして先日、誰かのインスタで、同じようにバラバラにする子を発見。でも、投稿者はまったくそのことに触れていませんでした。それで「深堀する子も普通」と思えるようになりました。

保護主さんは今でも深堀の子は面倒と言いますが、それは仕事と保護猫活動を両立させ、たくさんの猫を抱えているゆえのことではないかと思います。

どうでもいいような小さなことですが、気忙しい年末、見通しが良くなったように感じています。

会ったことのない人について

どうしてもっと早く気づかなかったのかと思うことはよくある。

私が生まれる前に亡くなっていた祖父は夕張炭鉱で働いたことがあると、父から何度も聞いたことがあったのに、どんな人であったのか、なぜ夕張へ行ったのか、どのくらい滞在したのか、どんな仕事をしていたのか、考えたことはなかった。父の話は、そこから一気に、青春時代の親子の葛藤へ飛んだから。

父の話は混沌としていて、人さらいに騙されて16歳で夕張に連れて行かれた。記者だった祖父は騙されて炭鉱に連れて行かれた。アイヌの人が親切にしてくれた。炭鉱から抜け出す時もアイヌの人に匿ってもらった。そんなお伽話もどきを、家族はたいして気にしなかった。私は、数日前にようやく祖父の名前を知った。それも、ひと月近く前に母に尋ね、聞いたことがないと言う母から父に尋ねてくれるように頼んでおいたことだった。聞いたことがないのか、忘れたのか、その境目は曖昧で、それを追求しても意味がないほど、時間を重ねてしまった。

数日前、父はこう言った。親父は若い頃に夕張炭鉱で働いて、頑張って課長まで昇進した。新潟の女性と結婚して、〇〇(故郷)に戻り、桶屋をやった。家と土地は、おふくろのミシンを売って30円で買った。あの頃、ミシンは〇〇では珍しかった。弟子も3人おった。葬式でも嫁入り道具にしても桶屋がおらんにゃどうしようもならん。

すると、炭鉱夫ではなかったのか。記者でなかったのは確実だ。アイヌはどうなんだろう。祖父の家は北海道とは縁がなかったはずで、当時、アイヌという言葉はどこから出て来たのだろう。アイヌは、昭和の初めには道外の庶民も知る存在であったのか。この話のおかげで、父は会ったこともないアイヌに対してとても好意的だ。アイヌのことは、何も知らないし、知ろうともしない。

ミシンが30円で売れたという話は変わらないが、祖父の生年月日は誰も覚えていない。祖父の生年月日を知りたいと叔父に尋ねたら、それはわからないが、戒名ならわかるよと言われた。まったく、お前以外に先祖に興味を持ってくれる子がおらん、とも言われた。いえ、たぶん、先祖への興味の方向性が違うと思う。私が知りたいのはあの時代を生きた祖父のことで、息子を2人持つ叔父叔母の脳裏には墓の継承の悩みがある。

祖父が学校に行ったのかどうかも、我が家ではもうわからない。ただ、戦争には行っておらず、地元の消防団の団長をしていたと、父が言う。空襲があると半鐘台に上がっていたと言う。それが団長の仕事なのか、私にはわからない。戦時中は警防団だったのでは、という疑問に答えてくれる人はいない。戦前生まれであっても、父の記憶の大半は戦後にある。

夕張市に聞くと、従業員名簿は会社にはあるのかもしれないけれど、どこで調べたらよいかわからないとのこと。祖父の故郷があった市役所で聞くと、戦前であれば戸籍の記録も残っていないかもしれません、かなり厳しいですねとのこと。

孫娘が、沖縄や九州や台湾の炭鉱の話を聞いて、見て、読んで、ようやく少し理解した頃、記憶も記録も消えかけている。ただ、自分のルーツのどこかに炭鉱が関わっていたかもしれないという小さなエピソードが、私の人生に加わった。

 

列車酔い

週末、大分で仕事があったのでJR日豊本線に乗りました。8時34分小倉発のにちりんシーガイアです。4駅で到着なら早いと思っていたのですが、大事なことを忘れていました。

この区間は何度かソニックで利用していたのですが、いつも乗り物酔いしてしまうことを忘れていました。列車で酔うことは通常ないのですが、この区間は別です。

当日はそのことを忘れていて、会場に着いた頃にはひどい頭痛で、もしやコロナかインフルか、熱はないけど何だろうと、少々不安に思いながらやり過ごしました。

しかも、「お昼休みはとらなくてもいいです。とっても30分から45分で。会場でお客さんに見られる場所では食べないでください」という主催側の指示もあって(結構酷い)、予定していた猫付き喫茶店でのランチをあきらめ、会場隣で平々凡々なサンドイッチとプラスチックカップに入ったアイスコーヒーで済ませました。平々凡々だけど、さっさと済ませることができたし、サンドイッチは普通に美味しかったし、仕事なら仕方ないと思える範囲です。

具合が良くなりかけた午後、飛び込みのお客さんも数組いらして、予約をはるかに上回る人数が次々とブースを訪れてくれ、一人で天手古舞しながらもどうにか捌きました。この仕事自体は慣れていて、他所のブースの説明もできるレベルなので、新人2人が担当する隣のブースよりも要領はよかったと思います。

実は当日の朝、うちが一番人の入りが悪いだろうという主催者の判断で、隅っこの壁際にブースを移動させられていたのですが、結果往来、イベントとしては予想以上の成果を出しました。新規入場者の足がほぼ途絶えた頃、終了時間より30分早かったのですが、主催者が帰ってよいというので、遠慮なく失礼しました。帰り際、「良かったですね、私が来たことが経費の無駄にならなくて」と一言申しましたのは、乗り物酔いと期待外れのランチタイムになったことへの小さなリベンジです。

帰りは、サリーガーデンのシフォンケーキと豊後牛のお弁当を買ってソニックで小倉まで。お昼にサンドイッチをしっかり食べたせいか、酔いはそれほど感じませんでした。

名前/Name/名字

『なまえのないねこ』という絵本を読みました。じゅげむに名前探しの旅を勧められるあたりから、涙腺が緩んでくる絵本です。背中を向けて泣きながら、時々ティッシュで鼻をかんだり涙を拭いたりしながら絵本を読む私の姿を、うちの猫は怪訝そうに眺めていたようです。

名前のない猫が出した結論は、猫だけじゃなくて、誰にでも思い当たる節がある一般性をもっています。だから、読み終わっても涙が止まらないわけです。

 

我が家の猫は、うちに来る前はミケちゃんでした。ミケちゃんと呼ばれたのは、ひと月くらいだろうと思います。声に出して呼ばれたのは、たぶん朝と夜と動物病院に行った時。それから、「ミケちゃん(6か月)」と書かれた札が、譲渡会のケージに、ミケちゃんからは見えない向きに貼られていました。ただ、譲渡会は一度で終わったので、ミケちゃん札は不要になりました。今、「ミケちゃん」の痕跡は、最初のワクチン接種と避妊手術でお世話になった病院の領収書に一行残るだけです。

 

今は、飼い主の苗字と相性の良い名前、そして、動物病院で呼ばれてもさまになる名前、を持っています。この名前を本人が好きかどうかはわかりませんが、その名前は自分のものだと認識しているようです。「かわいい猫さん」も「美人ちゃん」も「べっぴんさん」も、自分のことだと認識しているようです。

一人っ子なので、他の猫は一律ニャンコ、犬はワンコ、鳥はトリさん、鼠はネズミさん、虫は一律ムシさん、私が特に認識する必要のない人間は、赤ちゃん、ちっちゃい子、オジサンで済まされます。うちの猫は、「ちっちゃい子」が一番苦手です。

 

猫は名前をもらい、私は新しい自分を貰いました。飼い始めて一番変化したことは、部屋のドアというドアをすべて開けっ放しにするようになったことです。窓もよく開けるようになりました。おかげで、心の風通しもよくなった気がします。