我的杯子に詰め込まれた我的輩子の話です。

「台湾」を切り取る

黄胤毓さんの『緑の牢獄――沖縄西表炭坑に眠る台湾の記憶――』(五月書房新社、2021年)を読みました。本当は同名の映画を観に行きたくて、それも那覇で観たくていろいろ調整をかけたのですが、3月4月は無理だったので、そして沖縄の感染状況も悪化してきたので、本を読むことにしました。

映画の封切を昨年から楽しみにしていたのに実際には映画を観ていないことや、著名人による書評が好意的であることから、期待感が数倍に膨れ上がったかも、と思います。前半は読むのが止まらなかったのに、終わりに近づくにつれ、ややすっきりしない感じを抱いたまま読み終えました。

緑の牢獄というタイトルに、「」をつけたらどうだろうという気がしたのはなぜだろう。「緑の牢獄」は黄さんの言葉ではなく、三木健さんの言葉だという紹介があったからか、「緑の牢獄」制作裏話的なことが多かったからか。この辺りは映画を観ないと何とも言えないですけれど、最後の章は特にそうした印象を持ちました。おそらくそれは、私が映画『緑の牢獄』の内容を書籍『緑の牢獄』に求めたからだろうし、著者は映画に盛り込めなかったものを書籍に入れたからではないかな。つまり私の期待と著者の意図とのすれ違い。

映画の情報なしに読めば、すれ違いは起こらなかったかもしれません。現地踏査の下りは、冒険好きだけど少し臆病な少年の顔が浮かんできて、テーマの重さとのギャップも考えようによっては微笑ましいと感じます。若干、商業主義との葛藤を感じたところもありましたが、著者は正直なのでしょう。

この本の親切なところは、参照された文献情報が記載されていることです。その文献のひとつ、三木健『聞書 西表炭坑』(三一書房、1982年)を読んでみて、また『緑の牢獄』に対する印象が変わりました。

「台湾の記憶」を掘り起こそうとした黄さんの文章は、「台湾を切り取ってみせる」ことにある程度成功したと思います。それゆえ、もし台湾人がこの作品を読んだら、「西表ではひどい扱いを受けた台湾人もいた」ことが、「台湾人(全員)は西表でひどい扱いを受けた」ことにならないか、それがいつの間にか「台湾人が特に」や「台湾人だけが」のイメージに転化しないか。「同様にひどい扱いを受けた」日本人もいたことが読者の記憶から消えてしまわないか。注意深く読めばそんなことは言っていないとわかるのだけれど、議論の終わりに近づくにつれて、黄さん個人の思いと映画制作に関わった人々の思いの境界線が曖昧になっている。私はそんな印象を受けました。

一方、三木さんの聞書を読むと、関係者の話のそこかしこに台湾が浮かび上がってきます。その中には、台湾人坑夫だけではなくて、台湾と八重山との距離感も出てきます。炭坑医師がマラリヤ予防治療について学ぶために月一回台北市を訪れたというエピソードは、その一つではないかと思います。

とはいえ、私は西表のことも炭坑のこともろくに知りません。宇多良炭坑の畔に一瞬佇んだことも、高い湿度とカヌーの興奮とそれにそぐわない重い歴史の概説で、混沌とした記憶と化しています。だから私の感想ほどいい加減なものはないかもしれない。橋間おばあの存在も、『緑の牢獄』予告編を見るまで知らなかったのだから。もしかしたら、著者兼監督の若い感性と行動力に嫉妬しているかもしれない、と思ったりします。この映画は間違いなく日本や台湾で歴史を伝えていく。その時、観客や読者はどんなメッセージを受け取るのだろう。私の場合は、1980年代前半にまとめられた本に向かったのでした。

三木さんの聞書の中で殊更印象に残ったのは、村田満さんの話。村田さんが西表にいらしたのは、私の父が生まれて一月後。そして、故郷へ戻りたいという意思が関係者に伝わったのは、私が生まれて1,2歳の頃らしい。村田さんが西表で過ごされた長い長い年月が私の年表と重なったゆえか、どの話よりも一番記憶に残っています。