我的杯子に詰め込まれた我的輩子の話です。

Time for "Taiwan"

先月は花蓮に「居た」かのように、花蓮のことをまとめていました。もっと目を皿のようにしてみておけばよかった、耳を澄ませて聞いておけばよかった、隅々まで歩いておけばよかった、と思いながら。

今月は、屏東に「居る」つもりです。よく知らない場所でわからないことはたくさんありますが、アンアンという人に惹かれたので、少しでも近づいてみたいと思っています。

アンアンのおかげで、今さらですが、自分の思い込みにやっと気づいたわけです。台湾は、何かと並べて際立つ存在というよりも、ただ台湾であること。何かと並べたり比べたりすると、話がややこしくなって見えなくなる部分がある。台湾人の視点と私の視点のずれ。そういう、何だろう、これまでの自分をある意味否定するようなことも、離れている今だからこそ、冷静に受け止めることができるのかなと思います。

こじつけで言うならば、屏東との縁を感じています。そもそも私は、高鐵が通っていない場所に出かける気なんて全然なかったのです。台湾の暑さは知っていましたし、暑いのは苦手でしたから。

最初はよくわからなかった海角七号。范逸臣の外見と歌声に惹かれて行ってみたいと思った恒春半島。途中で歸來という町の写真を見て、そちらに行きたくなってしまった最初の屏東入り。屏東の市内は、どこを見たらよいのかわからなくて、歩き回って、阿猴の門に行き当たったり、日本時代の住居が残る辺りをうろついたり。道端でパイナップルを売る夫婦の、おばちゃんの刀裁きに見惚れたり。赤いドラゴンフルーツとパインを買って帰ったことが一番記憶に残っています。どちらも食べたことがないくらい、味が濃くて美味しかったから。でも、駅前の風景がぼんやりとしていて、思い出せない。

それから2か月、人間関係で嫌な思いをした時に、このまま帰国したら台湾を嫌いになると思い、台北を離れて、「国境之南」に行こうと思ったのでした。目的は台湾最南端でしたが、途中で牡丹社事件の縁の地も見ておきたいと思い、石門村に寄りました。宿の主人はパイワン族で、なぜか私は「さん」付けで呼びました。湿度の高い夏の日に、宿泊客は私と中国人母子二人だけ。華語と北京訛りの中国語と英語と「さん」付けのミックスで頭の中は大混乱。宿の主人の勧めるがままに山に入り、祖先の話を聞きました。暇つぶしに小学校へ行き、一人遊びをしていた小さな男の子に話しかけ、人通りのない路地をひたすらに歩きました。横には中国人母子。お互いに、行く場所の選択肢がないから、夕飯を食べて部屋に引き上げるまで一緒にいました。

疲れて夜の狩猟はやめて早く休んだ夜。とても静かで、真っ暗で。夜10時頃に一度目が覚めて、部屋を出たら、ドア開けっ放しでご主人は中国人客を連れて狩猟に行っていました。知らないおばちゃんがずんずん入って来て、水を飲んで出て行きました。外に出ると、星が綺麗で、あたりには人の気配がなくて。自分が住んでいる世界が何だか馬鹿らしくなってしまって、ちゃんと鍵がかからない部屋に戻って朝まで眠りました。宿のドアは開けっぱなしだったのに、安心して眠れました。鳥の声がうるさくて早く目覚めたけれど。翌日は石門の戦いの跡地や宮古島の人たちのお墓に行って、恒春の宿まで送って貰いました。

恒春では、宿に荷物を置いて最南端を目指しました。白タクのおじさんが周辺も案内してくれて、一人旅なのにたくさん記念写真が残りました。私の屏東体験はそこで終わっています。

だから、何も知らないに等しいのに、去年6月、ある台湾人が、屏東が面白いと教えてくれたのでした。現地に知り合いもいないし、とぐずっていたら、コロナで台湾に行けなくなってしまった。でも、いつ頃だろう、忘れてしまったけれど、たぶん何かのついでで、アンアン「も」SNSでフォローしていたのです。

私の思考の堂々巡りに終止符を打ってくれそうなアンアン。エアー屏東だけど、迫ってみたいと思います。