我的杯子に詰め込まれた我的輩子の話です。

パクチーと頭蓋骨

照屋年之監督の「洗骨」を観ました。粟国に住んでみたくなるような話です。

最初から最後まで、観客席にはクスクス笑いと鼻を啜る音が入り混じっていました。笑いと笑いを繋ぐのがすすり泣き、涙と涙を繋ぐのが笑い。

残念ながら私は映画を評するほど沖縄という場所を知りませんので、印象に残ったことをいくつか書き連ねてみます。

まずは死んだ妻の棺桶。膝を抱えた状態で入棺するスタイルは今も健在なのでしょうか。沖縄ではありませんが、父が子供の頃に、丸い大きな桶(樽?)に膝を抱えて座る形の死者を入れて土葬し、数年後に掘り出して埋葬し直したという話を聞いたことがあります。とても怖かったそうです。 

幻想的であったのは、時代を特定するのが難しい島の生活。今もそうなのか、過去の話なのか、見分けがつきません。スマホだけが2010年代後半を示唆しているような、それを除けばいつの時代設定でも成立しそうな話に思えます。猫は出てきませんが、山羊が出てきます。 

気弱で優しい、傷つきやすいお父さん、息子、おじさん。男の人ってこんなにデリケートだったのか、沖縄の男だからそうなのか。ちょっと私は、男性に対して無礼であったかもしれません。男性は強くて大きいからちょっとくらい蹴飛ばしても大丈夫と、今までどこかで思ってたなあ。

その気弱な男の部屋に並んだ二組の布団。自分の布団と隙間を作らずきれいに整えられた妻の布団。呆れるし、そういう男は愛しくもなります。

 じゅーしーの上にパクチーを少し乗せて、美味しそうにかき込む奥田瑛二パクチーが気になって仕方なかったのです。ああいう食べ方もいいなあと思いながら。

 椿油を塗ることには、どんな意味があるのでしょうか。椿油はいつからこの島で使われるようになったのか、知りたくなります。私の祖母は髪に撫でつけていた椿油、万能油でしょうか。

 そして、頭蓋骨。棺桶の中を映すとは思わなかったのです。棺桶の中を映した瞬間、客席からも驚愕の声なき声が聞こえました。私もその理由がわかります。私の知っている頭蓋骨は、親族のそれらは、だいたい白かったのです。白くて、薄くて、少し力が入ると割れたり粉々になってしまうくらいしっかり焼かれた熱い骨。それとはまったく異なる骨が出てきたから、驚いたのです。人間の骨っていつも白いわけではないことを知りました。即身仏を見たこともあるので、白くない骨も見たことがあるはずですが、身内の骨というものは火葬場でのきれいなまでの白骨という観念が脳裏にすり込まれていたのです。

その日に消え去る命と生まれて来る命、生まれた命。日々、一瞬一時たりとも生まれたり消えたりすることが途切れるわけではないのですが、ことさら生と死の偶然に思いを馳せたくなる日もあります。

映画の素晴らしいラストシーン、今日生まれた命に祝福を。

パクチーよ、永遠に。できれば猫も見たかった。