我的杯子に詰め込まれた我的輩子の話です。

台湾人

生活圏内に何人かは台湾出身の方がおられます。

何十年も日本に住んでいる、日本人と結婚している、という方もおられます。

よく聞かされるのが、「台湾ではこうするよ」「台湾人はこうよ」という、「私が台湾(人)代表」みたいな一言。人によっては口を開くたびに必ず仰る。

これを毎回聞かされる方は、繰り返される「台湾では」「台湾人は」に辟易することもあります。だって、粽ひとつとっても北と南で作り方も味も異なるではないですか。なぜにあなたが台湾スタンダードになるわけ?2300万人がみな臭豆腐食べるわけ?そうじゃないことは私にもわかっていましたが、どうして彼らが日常生活の中で口を酸っぱくして「台湾」「台湾」と連呼するのかがわからなかったのです。

でも、最近少し、彼らの気持ちがわかるような気がします。勘違いでなければですが。

彼らが言う「台湾」「台湾人」は中華民国としての台湾ではなくて、彼らの故郷、彼らが台湾に居た頃に過ごした時間、一緒に過ごした友だち、家庭の味、そういった懐かしいものの総体ではないかなと。だから、それぞれが描く「台湾」は少しずつ違っているはず。でも、台湾で過ごした日々の中に、毎日、毎晩、自分を包んでいた匂いや騒めきがあって、そこに滷味をテンポよく売るオバチャンや夜市のワヤワヤっとした空気が介在していて、それこそが「台湾」なのかなあと、思います。

外国暮らしの心細さ、いつでも帰れるわけではない距離、パスポート持参の壁、距離感を保つ日本の人間関係。そうした日本暮らしの中で、「台湾」は台湾出身者にとってこそ特別な言葉になっているのかな。勝手な思い込みと推測かもしれませんが、今はそう理解しています。