我的杯子に詰め込まれた我的輩子の話です。

暑い国から

寒いので、こたつを買いました。

昔、実家にあったこたつよりも、小さくて軽いマレーシア製。

暑い国でこたつを生産しているんだ。ペラペラのビニールで包装された部品のひとつひとつ。作業したマレーシアの人は、日本人がこたつをどこで使うのか、知っているだろうか。二つ折りでビニール袋に入った説明書。説明書を袋詰めした人は、日本語が読めないかもしれない。

説明書には「この商品は日本国内専用です、海外ではご使用いただけません。This appliance is designed for domestic use in Japan only and cannot be used in any other country.」と書いてあります。ここ以外に英語の記述はありません。日本語が読める人のためにマレーシアで作られたこたつです。

一日遅れで敷物と布団が届きました。布団は、アメリカから輸入した綿を使った日本製で、少ししぶい桜柄プリントです。

こたつと布団を全部「日本製」で揃えると、とんでもない金額になります。とんでもない、と思うのは、こたつってそういうものだと思っているから。たかがこたつ。初めての一人暮らしでも無理なく買えたこたつ。ミカンの似合うこたつ。昔、祖父とトランプをしたこたつ。昔のこたつはヒーターが大きくて、ちょっと足を動かすとすぐに当たった。子供の「ちょっと」はドッタンバッタンだったかもしれない。今のこたつヒーターはとてもスマートです。

何だかいい感じだったので、今夜はこたつに入ってご飯を食べました。

ある猫

2年余り気にかけて来たキジトラの猫がいます。

最初はお兄さん猫の後ろにいつも隠れて、お兄さん猫が食べ終わってからカリカリを食べ、お兄さん猫が飲み終わったコップの水を飲んでいました。

物音がするとお兄さん猫と同じポーズで同じ向きに同じ角度で首をかしげる男の子でした。

お兄さん猫が亡くなってから何日も、二人で住んでいたダンボールハウスのにおいを嗅いでいました。その頃ようやく、声を出してニャーと鳴くことを覚えました。

甘える日もあれば、理由もわからず機嫌の悪い日が続くこともあって、機嫌が悪ければコップの水には目もくれず、水たまりの水を飲んでいました。

夏頃、捨てられてしまったのか、新入りのさび猫と仲良くなりました。キジトラは、毎晩さび猫の帰りを待ってからカリカリを食べ、さび猫が飲んでから水を飲むようになりました。さび猫が帰って来ない夜はふて寝していましたが、夜遅くさび猫が帰ってくると走り寄り、鼻先同士くっつけました。

ある時、二人は引っ越して、警備員さんが来ない食堂裏に住むようになりました。そしてしばらくすると、キジトラはあまり姿を見せなくなりました。

たまにキジトラが戻って来ると、痩せていることがわかりました。でも、人間が近寄れない場所に陣取って、機嫌悪そうに眼を閉じて知らん顔をしていました。ある時、ささみのゆで汁を持って行きましたら、どこにそんな体力があるのかすっと降りて来て、コップに半分ほども飲みました。

2週間近く前に会った時、随分痩せていて、なでると背骨や大腿骨の位置がわかるほどでした。その頃初めて、キジトラが長く鳴くようになったことを知りました。

昨夜、キジトラは仁王立ちになった足の間に寝そべって、ゴロゴロ言いながらじっとしていました。初めてのことです。しばらくすると私の周りをぐるぐる回り、ニャーオニャーオと鳴いたり、ゴロゴロ言いながら、左横にぴったりくっついて寝そべりました。風もなく、人も通らず、しばらくそのままでいました。私の右側30センチほどの所に、さび猫が香箱座りをしました。さび猫は時々、こちらを見つめてきます。キジトラの頭を見下ろしても、スカートの裾に半分隠れて見えません。少し体を曲げて覗き込むと、キジトラの両目はほとんど開かなくなっていました。体はいよいよ痩せていて、もう何も食べられないようです。

さび猫がどこかへ消え、私も帰る支度をし、動かないキジトラの傍を離れました。途中で振り返ると、キジトラが細い足で追いかけて来るように見えました。寒いから、おうちに帰ろうね。そう声をかけて前を向き、もう一度振り向くと、キジトラの姿は見えませんでした。

旅の総括

島の名前が頭の隅に残っていたのは、基隆の沖縄漁民の像やそれについて書かれた文章とは関係ありませんでした。そういうのは、島に行ってからのお喋りの中で思い出したことです。

時間とお金の制約がある中でここを選んだのは、「岩合光昭の世界ネコ歩き」を観て素敵だなと思っていたからです。

猫もたくさんいましたけれど、適度な不便さが良かった。猫が夜中に屋根の上で追いかけっこなんて、初体験でした。翌朝、その犯猫を捜すのも面白かった。ひとつだけ不満をいえば、夜中に宿の庭の明かりを消しておいてくれたら、もっとよかった。でもこれは宿の方のご厚意だし、隣の部屋に別の方が泊っておられたので、勝手に消すわけにはいきません。それでも通りに出ると夜空にたくさん星が光っていました。

御嶽など島のルールがあることで、そのルールを地元の方に確認しておくことで、余所者の私も安心して歩き回ることができました。神様に失礼があるといけないから、というよりも、信仰と伝統の維持に腐心して来られた島の住人に対しての敬意です。この人たちがいてこそ、神話も伝説も、噂話だって存在することができると思うからです。

一方で、私の目は離島の高齢化の現実を眺めていました。

昨日、録画していた新日本風土記石垣島米原という地域を紹介していました。今では8割が最近の移住者になったとのこと、戦後すぐに移住してジャングルを切り開き、マラリアと闘って来た先人の苦労が伝わらないことを懸念して、語り部の活動をしているそうです。

たまに行けば天国に見える南の島に近づけば近づくほど、厳しい現実が見えてくる。自分は残りの人生をどう生きるのか、重ねて見てしまうこともあります。

島雑記

行ってもよいと言われた気がして行った小さな島。直前にネットでいろいろ調べていると、神の島と呼ばれていることがわかり、いろいろ不思議体験が紹介されていて、うーんどうしようと思ってしまいました。スピリチュアルに過ごす気分じゃなかったからです。でも、こんな理由で宿をキャンセルするのは大変申し訳ないし、やっぱり行こう。でもそんな理由で迷っていたので、ガイドは現地で気が向いたら手配しようという、のんきな出発になりました。

わりと揺れたフライトで那覇空港に入り、ゆいレール、バス、フェリーを乗り継いで一日がかりで島に到着しました。飛行機の揺れ、バスの窓に照り付けた強い日差し、船の揺れで、夕方から頭痛がひどくなりました。前にも経験があるのですが、私はガラス窓越しの強い日差しと揺れの組み合わせ(たぶんバス)に弱いのです。こんな日は早く寝るに限ります。

乗り継ぎ時間に余裕がなくて何も食べるものを買って来なかったため、この時間に唯一営業していた商店に行きました。行く途中、90歳というおじいちゃんがモズク漁の網を修繕していました。「うちで一緒にご飯を食べよう」「おじいちゃんはさびしいんだよ」と誘ってくれましたが、「すみません!」と頭を下げて先を急ぎました。島の常識がどんなものかわからないけれど、見ず知らずの一人暮らしのおじいちゃんの家に上がり込む勇気はありませんでした。

商店で翌朝食べるパンを買って代金を払おうとした時、私の横で順番を待っていたおじさんが「どこ泊まってる?」。中国語では「ご飯食べた?」が挨拶言葉とよく言われますが(実際はそんなことはない)、ここでは余所者に対する第一声は「どこ泊まってる?」のようです。

港の隣の食堂で夕食をとりながら、せっかくだからガイドをお願いしようと思い立ち、その場で連絡して翌日9時から2時間ほど案内して頂くことにしました。ガイドさんは複数いらっしゃるようですが、一番簡潔なプロフィールの方にしました。まさかその方が、台湾の知り合いと今年3月に会っていたとは知りませんでしたし、基隆の和平島にある沖縄漁民の碑のモデルになった方の親戚とは存じませんでした。人の縁は不思議なものです。

 

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翌日朝、6時に起きて身支度を整え、日の出を見に近くの浜へ走りました。新しいカメラに慣れようと動画を撮っていたら、後ろから「おはようございます」とおばあちゃんに声をかけられました。肌のきれいな人で、いろいろ自然の大切さを説いてくれました。その人が誰かも知らず、今日はガイドさんと島を回ると言いましたら、ガイドは誰かと聞かれ、こんな小さな島で隠し事をしても仕方あるまいとガイドさんの名前を告げると、やはり知り合いだった模様。島の生活ってこうなんだ。

私が泊まった宿の主はちょうど旅行中。どこに何をしに行っているか、誰と会っているかまで、島の人皆が知っていて、フェリーで働くオジサンも知っている。島ってこうなんだ。

早朝の浜で出会ったおばあちゃんは「鳥さんお帰り、鶯さんおはよう、ありがとうね」とあちこちに声をかけていました。この地域ではちょっと有名な方だと、後から知りました。この方についてはいろいろな話があるようですが、私が知るところではありません。ただ、鳥に声をかけたくなるほど、人が少ない島です。私はと言えば、港に降り立った時から猫に挨拶してますし、道端に座り込んで猫とお喋りもしましたし、あまり人のことをとやかく言えません。

午後、自転車で島を回った時、道路のど真ん中に黒い子猫が寝そべっていました。車が来てもどかないので、自転車から降りて抱いて避難させようと思ったら、私の両手をすり抜けるようにピョンピョン飛んで行きました。その様子を見た近所のおばあちゃんが「あら、昨日はいなかったのに、また出て来た」。子猫が散々車の通行の邪魔をした挙句、草むらに飛び込んだのを確認して、このおばあちゃんと微笑み合いました。

ゆっくり集落の中を走っていると民家の中から男性の怒声が聞こえてきました。「また同じことをして。少しは頭を使いなさいよ!」と、奥さんらしき人を怒鳴っている声。男性は庭から部屋に入るところ、怒鳴られている方は室内に居るようです。「なさい」という丁寧な命令形に「よ」が付くから少し柔らかい響き。内地なら「使え!」「使わんか!」となるのではないかしら。怖いよね。

イラブーを燻した小屋は午後には閉じられていて、向かいの広場では女性と小さな男の子がバドミントンの練習をしていました。それほど若くはない女性は髪を一つにまとめて、その上から三角に折ったスカーフで覆っていました。スラックスに割烹着をつけたままで、おっとりと子供にバドミントンは横からではなく下から羽根を打つのだと教えていました。この辺りの子供は、イラブ―を燻す煙が小屋からもくもくと上がるのを見ながら育つのだと思います。

島に滞在中一日2回は通った船待合所の売店のおばちゃんは、長男に嫁いで28年、韓国と台湾が大好きだからよく旅行に行くのだそうです。韓国では買い物はあまりしないけれど、韓国のりをご飯に巻いて食べるのがお気に入りだと言っていました。

みんな知り合いのような島では、静岡から移住してきた画家の話なんて、鳩も猫も知っているのではないかと思うくらい。ガイドさんは「ちょっと寄って行こう」と、本来の案内コースにはない仕事中のアトリエに案内してくれました。そこは前日の夕方散歩していた時に、猫が二匹飛び出してきた家でした。

島を案内してくれたガイドによると、「葬式の時は集落の北の端まで村人が送りに来る。自然崇拝だから坊さんもいらない。集落を出たら親族が死者を墓所へ運んでいく。この島では今でも12年に一度、洗骨をやっている」。

美しい風景と降臨神話で観光客を魅了するこの島は、高齢化が深刻で、学校の先生も診療所の先生も島の外から来ています。子供たちは高校から本島の学校へ行くけれど、その寮や下宿やアパートの費用は離島補助でまかなっているそうです。小学校の校長先生は隣にある幼稚園に移動すれば園長先生になる。運動会のリレーは、小学生が最初の4分の1を走り、残りは中学生が走る。

島の人同士が話す会話は沖縄本島の言葉とも違うようで、一言も聞き取れません。

ここの御嶽は鳥居もない。何人も立入禁止の有名な御嶽は陽、その近くに陰の御嶽と言われる場所があります。ここは女性だけは入ってもよいと言われたので、入口まで行ってみましたが、奥に広がるのは薄暗い森でした。ふだん仏像やご神体など「何か」に向かって手を合わせてきた私には、御嶽では何が拝みの対象なのかわからない。たぶん森そのものが祈りの対象であり、祈りの空間なのだろうと思います。

 

         *  *  *

 

滞在中、スピリチュアルな感覚も不思議な体験もありませんでした。ガイドさんは、普通が一番、と言ってくれました。

幾種類もの青を見せてくれた海、朝陽が昇る前のピンクに染まった空を眺め、畑に点々と続く地割の名残の石を眺め、絶景を見下ろす崖では足元のサンゴの痕跡を撫でたり御嶽の森の裾に広がる浜辺を眺めやりました。夜空の星もきれいでした。こういうものたちの中に身を置きたかったのです。

私の願いは叶いました。だから、やっぱり神様は居られるのかもしれないし、そっと私の願いをかなえてくださったのかもしれません。

隣島へ「行ってもよろし」

思いつきで旅に出ようとしても、何だか決まらない、チケットが高すぎる、間で会議が入るかも、というのを繰り返す時は「行かなくてよろしい」のサイン。石垣へ、さらに西へと探しても決まらなかった夕べは、途中で「もういいや」と思って寝てしまいました。

「ここは無理だろうなあ」と思いながら今日のお昼前に電話した小さな宿。「2泊できますか」「あぁ、だいじょうぶですよ。1泊4000円ね。おなまえは?」ときました。これは「行ってもよろし」のサイン。

宿をとってから、飛行機をとって、空港から港までのルートを調べて、船の時間をメモして・・・あら、ご飯ついてない。まあ二日くらい食べなくても大丈夫。港から宿まで、どうやって行くかはその時に考えましょう。この島で何をする?何もしない。昨夜までは視界に入っていなかった小さな島。ガイドをお願いするかどうかはもう少し落ち着いてから決めます。

と、そこでSNSがピコーンと鳴りました。

今朝早く、これも一応聞いてみようかなあと思って連絡した人からのお返事。その日はいるから来ていいよ、歓迎、と。慌ててこちらも飛行機をとりました。前後の予定を決めていないので、まだ宿はとっていません。でも、会いたかった人に会うプロジェクトin花蓮、動き出します。

先日、24時間も滞在できなかった沖縄旅は、時間を気にしながらの気忙しさがありました。時間を気にせず、ゆっくりしたい。もう旅する機会はないと思っていた2019年、大小二つの島が小さな望みを叶えてくれるようです。

お友だち猫

今夜は笑ってしまいました。

顔なじみの野良猫が、私を見つけて金網フェンスを越えてやって来ようとしたのに、太ってしまって金網と地面との隙間をくぐれない。もぞもぞ何度か試した後で、少し地面がくぼんだ所を探し、むぎゅむぎゅぎゅぎゅという感じで金網の下から出て来た子。

5日しか経っていないのに、なんでそんなにまるまるしたわけ?どんなご馳走を食べたわけ?

この子はとっても欲張りなので、食べ物を見つけると素早く走って行って一番良いポジションをとります。新入りなのに、いつの間にか先輩猫たちを従えるようになりました。人に対しても同じで、気に入った人にはとことんすり寄らないと気が済まないらしいです。

そうかと思えば、ご飯の前におやつは食べなかったりする。気まぐれなのか、良い子なのか。

寒くなって来たので、風邪を引かないようにしてほしいです。

お墓狂騒曲

短くて楽しかった沖縄旅行から戻ったばかりですが、お墓の話です。

お墓の行く末だけではなく、造成や維持にも関心を向けるようになったのは、『動く墓―沖縄の都市移住者と祖先祭祀』を読んでからです。沖縄では、ご先祖様を大事にするという通説だって変わり得るし、変わりたくないような変わりたいような葛藤もあることを知り、地域は違えどご先祖様とのお付き合いをどうするかは悩ましい問題なのだと再確認しました。

我が家でもお墓の移動の話が持ち上がったこともあり、故人が亡くなった時よりも、何十年か経ってからの方が死者との関係を思う機会が増えました。年取った親は、世間で話題になれば「うちも樹木葬で」などと言っていましたが、「お墓のことはわかるようにメモしておくから」と言うのを忘れませんから、こちらが本音でしょう。家単位で造ったであろうお墓が、やがてその家の構成員一人一人の死生観を形成していくような気がします。

沖縄に限らず、お墓は人間にとって一番のタブーなのでしょうか。ネットで探すと「お墓をとじる=新しい墓地へ移転する」情報はそこそこあるのですが、「今在るものを閉じて完結」したい場合の情報は見つけられませんでした。正確には、知りたいところがぼかされている、というべきでしょうか。

今回の旅行、延伸したゆいレール経塚駅周辺で夥しいお墓を見ました。このお墓群の背景に、いろいろな家族関係があるはずです。場所は違えど、お墓問題は少しずつ私の身辺にも忍び寄っているような気がしました。