我的杯子に詰め込まれた我的輩子の話です。

眼鏡

眼鏡を新調しました。フレームは紫縁で、私が生まれた年に創業した鯖江の会社の製品です。レンズは、ちょっと大きめにしました。

近視が強いので、レンズの中でガクッと顔の輪郭が内側にずれるし、目が小さく映ります。そういう意味では美しくはないのですが、視野が広がったので、他人の目さえ気にしなければ快適です。

これまでかけていた眼鏡は赤縁のスウェーデン製で、かけた時にレンズの厚みが目立たないように極力小さめのフレームにしていました。でも、使い勝手がいまひとつだった上、先日、強風で跳ね返った洗濯物にあたって真っ二つに割れるというアクシデントに遭いました。怪我がなくて幸いでした。

眼鏡を作り直すのはお金も手間もかかって面倒です。私はそこそこの年齢になりましたので、検診も兼ねて眼科で視力を測ってもらいます。手間に加えて、相場がありません。さすがに上限はある程度設定しますが、ピンキリ揃えた眼鏡屋さんはデパートみたいなもの。納得がいく一本を選ぶために20本以上のフレームを試し掛けさせてもらいました。

私の場合、レンズは一番薄型で軽いものと迷いがありませんので、フレーム選びだけがポイントになります。10年に一度くらいしか作りませんので、その間にフレームとレンズは着実に進歩しており、買い替えはお得感があります。

もちろん安いにこしたことはありませんが、私という人間の印象を決めますし、使い勝手も良くないと意味がありませんので、妥協しない買い物のひとつです。

見た目の美しさを追求した前回までに比べ、最近は今までの自分と違う印象を与える眼鏡に惹かれます。でも、人前に出る機会もありますので少しは綺麗さも気にします。こと女性のお客さんに対しては、眼鏡屋さんのアドバイスは柔らかさと優しさが軸になるようです。優しく見えることが仕事上、邪魔になることもあるのですけれどね。

なりたい自分と世間が期待する自分の間には、レンズの内と外で顔の輪郭線がガクッとずれるくらいの差があるようです。

猫とじいちゃんとばあちゃんの島

私が住む市内にも保護猫カフェができたそうです。その一方で、職場に住みついている猫は目を病んだらしく、可哀そうではありますが、今のところなすすべがありません。

やるせない気持ちとは、こういうことを言うのでしょうか。心を落ち着かせようと、オフィスに寄って30分ほど座り込んでいました。

さて、今日はお休みを頂いて『ねことじいちゃん』を観に行きました。動物ものはあまり観ないのですけれど、タマのポスターが可愛かったので、公開初日の最初の上映時間に行きました。これは多分、正解。

初日とはいえ、平日の朝ですから、普通は映画館にあまり人はいないのです。でも今日はわりとお客さんが入っていました。しかもほぼ全員が、いつでも大吉さんやトメさんの代役が出来そうな年齢の方たちです。半分くらいは男性でした。これは、夕方17時40分からの最終上映では見られない光景だと思うのですよね。ご夫婦連れも何組かいましたが、男性一人で見に来ていらっしゃる方も少なくありませんでした。私は映画も好きですが、映画を観に来る人たちを観察するのも好きです。

「ねことじいちゃん」は、佐久島の美しい風景とのびのびとした猫たちが主旋律となって、老いと過疎と少しの青春が描かれます。あんたがいなくなったら私は誰と喧嘩すればいいのよ、という言葉には泣かされました。物語はとてもシンプルで、登場人物はみんないい人という理想郷ですが、それでも一人、また一人と鬼籍に入っていく、あるいは島を出て行くことで、登場人物に制限時間が言い渡されていくように思えます。

東京で暮らす息子の部屋は、マンションの書斎スペースでしょうか。狭い空間は机と椅子の周りをいろいろなモノと本棚が取り囲んでいます。隙間がないほどごちゃごちゃした机の上を息子の猫が歩き回る。嫁と娘の顔は映画に出てこない。一緒に住もうよと何度もお父さんに呼びかけながら、どことなく自信なさげな、頼りない雰囲気があります。

狭い息子の部屋とは対照的に、一人と一匹が悠々と暮らす大吉の家。巌の家。サチの家。猫と島の人々との良い所だけ拾い集めた作品。写真家が撮った映画を、私は初めて観たかもしれません。この人は猫を撮らせたら上手いというけれど、佐久島の美しさがじんわりと伝わってくる映画でした。

夜活

エアロビのクラス、私はいつも言われた通りの動きをしていないから叱られるのだけど、昨夜は基本の動きはできていたか、そうしようと努力している様子は見えたみたいで、右と左を混乱して時々モタモタしても先生のご機嫌はとても良かったです。

この先生、叱る時はあっても褒めることはあまりないと思っていたら、褒めたくなるぐらい嬉しい時は彼女のダンスの動きと声が大きくなります。そして、嬉しすぎて次の動作をよく間違えます。

あ~間違えた、ごめん、ごめん、と全然反省してない先生は、生徒の人気者です。

月曜の夜はエアロビの後にズンバが続きます。昨夜のズンバでは先生の掛け声がひときわ大きく、それに続く生徒の掛け声も大きく、たぶん、隣の部屋で自転車漕いでるおじさんたちからまたクレームが来ますね。でも音楽や声が小さいと面白くないのです。私たち、家でできないことをしたくて来ているのだから。顔をしかめてスタジオを覗き込むおじさんも、一緒に踊ってみればよいのです。

結局昨夜は終了時間をオーバーして先生が叱られたようですが、私は初めて少し上手くなったかも感を実感できた一日でした。

先生、加油よ。下周見。

月曜日は市場へ出かけ・・・

朝一番で税金の申告をしに行った。会場で30分並んで番号札をとったら、すぐに個別ブースへ連れていかれてスマホで申告。電子データだけが政府に飛んで行った。私は番号で管理されている。椅子にも座れず長い時間立ちっ放しのおじいちゃんやおばあちゃんが大勢待つ会場を後にして、街へ出た。

本屋に立ち寄ったら、お客さんはほとんどが退職したサラリーマンといった風情の人たちだった。目の前にあった樹木希林の本をちょっと立ち読みした。この人、無駄がないなあ。エッセーはどれも短い。短すぎるくらい短い。喋りすぎない女性は素敵だ。本の写真の希林さんはどれも美人だった。今日は希林さんを買う気にならなかった。

本屋の先に眼鏡屋さんがある。気になっていた黒縁の眼鏡を買おうか迷いながらお店を覗き込むと、いつもの店員さんが見当たらなくて、入るのをやめた。

初めてのお店でジプシーっぽいスカートを試着してみて、買うのをやめた。

商店街をぶらついて、雀荘の下のラーメン屋さんに入った。お昼の後、奥行きのある雑貨屋さんに入り、手触りの良い日本製のタオルと、数十匹の猫が描かれたエコバックを買って、市場に行った。

市場の中は狭い通路。お店の人と地元のお客さんと観光客が、無秩序に歩きたい方向に歩き、勝手に立ち止まり、誰かの進路を妨げる。どこかのおじさんが台車を押して来たと思ったら、ぶつかる前にヒョイと横の路地に消えていく。ついこの間、地元のテレビ局が紹介した角打ちのお店には、月曜日の昼だってお客さんが何人もいた。お店の前を通る人たちが、看板に向かってシャッターを切る。しゃがんで暖簾の下から中を覗き込む観光客もいた。向かいの八百屋さんでは、大きな葉付き大根が一本100円、白い苺もあった。この市場、鮮魚屋さんが増えた気がする。観光客に交じって行列に並び、サバを買った。胡椒をたくさん乗せたチーズケーキとふわふわのクロワッサンも買った。

家に着いて、台湾で買った珈琲豆を挽いて熱々の珈琲を淹れ、大音量でクイーンを聴いていたら、電話がけたたましくなった。

ご近所から騒音の苦情かと思ったら、職場からの電話だった。メール連絡でも全然問題ない話。でも、電話したくなる時があるのよね。

友だちからのメッセージを開いた。年に一度の近況報告をする人。半年に一度の近況報告をする人。来週ペルーに行くらしい。来月トロントに行かないかと誘われた。行かないよ。一路平安。

平和な一日です。夜はエアロビに行きます。

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ボーイズ、ストップ・イット!

男の子の扱いは難しいです。

大学生になっても反抗期。猫も反抗期。いつまでも意地を張って隠れていると、鰹節のおやつ、カラスに盗られますよ。

ご機嫌が悪いのも、いい加減にしてほしいです。

All we hear is radio gaga, radio googoo

このところ映画鑑賞が続いております。

いつもはDVD派の私が1週間のうちに映画館2回は珍しいことです。

ボヘミアン・ラプソティ。あまりに評判であったのと、ちょっと落ち着かなかった金曜日の夜と、ギリギリだけど滑り込めた最終上映時間のおかげで、クイーンの物語を観ることになりました。

クイーンを知ったのはラジオ。聞き始めたのはいつかはっきりしませんが、中学に入った頃には帰宅してFENを聞くのが日課になっていました。周りの大人は英語がわからなかったから、私がどんな曲を聴いていても誰も気にしませんでした。うちの隣は英語塾でしたが、そこの先生は学校英語専門でしたから、FENなど聞いていなかったと思います。その先生の息子さんは英語を使いこなせる青年でしたが、私が毎日マイケルやpart  time loverやクイーンを聴いていたとは思いもしなかったようです。

最初は歌詞が聞き取れなくて、何度も聴いてスペルを想像しながら書き出してみて、辞書を引きながら単語を特定し、単語を繋げて文章にして、スラングもわからないくせに再び辞書を片手に意味を推測するという気の遠くなる作業が何だか楽しくて、時間を忘れて没頭することもありました。とはいえ、人生経験も語学力も足りない子供に歌詞の魅力などわかりません。

映画の中で、そして映画の後にユーチューブで曲を聴き、耳が覚えている曲と辞書を引かなくてもわかるようになった歌詞が2019年にようやく合わさって、クイーンの魅力に気づいたのです。子供の頃にこの曲を理解できていたら、人生ちょっと違っていたのではないかしら。

そういうわけで、今日は会議の間もずっとRadio gagaとMama...Life had just begun...が頭の中で鳴り続けておりました。平和ですね。

「洗骨」感想文

映画館の帰り道はまだモヤモヤとして言葉にならなかった思いが、一晩経つとどうにか形になることがあります。

私のモヤモヤは、弔いの在り方でした。

誰かが亡くなると、誰かが業者に連絡して、病院まで遺体を引き取りに来てくれたり、家に帰ったら既に祭壇が出来上がっていたり。火葬場でお骨を拾って帰ってきたら、清めの塩が用意してあって祭壇は小さく設え直されていたり。

「洗骨」には業者は出てきません。日取りを決める基準があるのかもしれませんが、家族と親族が集まってすべてを用意して持ち込みます。骨を洗う盥や水も、洗った骨を並べて乾かす敷物も、頭蓋骨を地面に置かないための小さな折り畳み椅子も、正気ではやっていられない人が飲むお酒も。時間がかかる作業だからお重に詰めたお弁当も要ります。本物の家族葬です。しかも暑い。映画ではなかったけれど、もし当日島を後にする人がいたら、時間との戦いも入って大変な戦になることでしょう。

巷で流行りの家族葬は「シンプルで楽」だから広がっているようですが、粟国の「家族葬」は家族への負担がとても大きな儀式のようです。

骨にこびりついた髪の毛の束が盥の水の中でズルっと剥がれて行く光景は、普通は怖い、気味悪いシーンです。でも、大事に抱えた頭蓋骨を手で優しく撫でるように洗うので、怖くありません。これを見ながら、生前は善人であれ、誰かを苛めるなと、邪なことを考えてしまいました。

幽霊も死者も骸骨も、随分いろいろなイメージが作られてきたので、言葉を聞いただけで怖いものと認識してしまいます。もし怖いという感情に襲われないとしたら、その人の温もりや声を知っているからでしょうか。

作られたものというならば、お葬式のイメージも手順もそうです。小さな離島では葬儀場を作るのも大変でしょうし、洗骨の風習が残っている背景には、人々の思いなのか、他の選択肢がないのか、判断しかねる所があります。けれども、高炉のスイッチではなく、時間をかけて家族を弔う様子から集落の営みを描いた「洗骨」という作品、私は好きです。

ただ、この作品には至る所に笑いがこみ上げる仕掛けがあって、哀しくて泣いているのか、おかしくて泣いているのかわからなくなってしまいます。目の周りの化粧が一番とれやすいタイプの映画ですが、観終わったら、心がすっきりします。