我的杯子に詰め込まれた我的輩子の話です。

終わりについて考える

このところ、終わりを思うことが増えました。

これまでは、何かが始まると思ったり、始まると信じようとしたり、始まることが望ましいことだと思っていたので、自分の意識をそちらに向けようとしていました。でも、始まりがあれば終わりがあるよねと、思うようになりました。

COVID-19は、例え感染しなくても、自分の「日常」や「ルーティン」が永遠には続かないことを知らしめたように思います。永遠の終わりではないにせよ、日常がどう変わるのか、新しいルーティンをどんなふうに作るのか、例えばオフィスを去る日がカレンダーに書き込まれたら、どんな風にその日までを過ごすのか。職場は終わりを予定することができるかもしれないけど、人生はどうだろう。私はその日をどう迎えるのだろう。

金城夏子という密貿易に携わった女性がいたそうです。彼女も、慣れたことの終わりを何度も経験したと思います。夏子の物語は、「男顔負け」の度胸と才覚で困難を乗り越えていくストーリーで、短い人生を豪快に生き抜いた女性像が描かれます(奥野修司『ナツコ――沖縄密貿易の女王』文藝春秋、2005年)。その女性像は、男性が描いた夏子なのか、夏子そのものなのか。

人は、物事の威勢の良さを尊ぶものなのか。繁栄や豊かさは良いと思いますが、すたれていくものから目を背けがちになるような気もします。見方を変えれば、徐々にすたれていくことや、簡素化されていくことも、その地に生きる人にとっては「ダーウィンの進化論」かもしれないと、鬼が笑うようなことを考えたりします。それでも慣習を維持していこうとする試みが、人を感動させるのか、安心させるのか。記録して残しておかねばならないという使命感を駆り立てるのか。民俗学というのはよくわからないのだけど、宮平盛晃『琉球諸島の動物儀礼――シマクサラシ儀礼民俗学的研究』(勉誠出版、2019年)を読んでそんなことを思いました。シマクサラシの話は、「防災」というキーワードが過去と現在をつないでいます。防災に込められた祈りは、どんな言葉で紡がれたのか。儀式の終わりを避けるために、あるいは迎えるために、人は何をしてきたのか。遠く離れた場所から想像するのみです。

さて、私が終わりについて考えるようになったきっかけをたどると、小さな事の積み重ねにあるような気がします。例えば、2年くらい前に更新したパスポート。係の人に勧められて増ページしたのだけれど、心の中で「そんなに出かけることあるのかなあ」と思っていました。今から思えば的中です。この数年、台湾で体調を崩した時の心の反発力が弱くなったこともそうです。「いつまで一人旅ができるんだろう」と帰りの飛行機で思ったことがあります。体は動くけど、世界がシャットダウンされるとは思わなかった。その頃はまだ怖くて想像しなかったけれど、少しずつ、「『今』が変わってしまう時」を頭の片隅に置くようになっていたのかもしれません。最後の台湾旅行で、媽祖様に「また近々訪台できるか」ポエで尋ねなかったのも、虫の知らせだったかなと思ったりします。そこで「✖」と言われたらとても落ち込んだと思うから、聞かなくて、よかった。そこはまだ、前だけ向いていたいのです。

始まりだけを見ようとしてきた私が、少しずつ変わろうとしている、この齢になってようやく、いや、また変わろうとしています。確かなことは、まだ終わりにたどり着きたくないと思っていることです。