我的杯子に詰め込まれた我的輩子の話です。

すれ違った「変なおじさん」

志村けんさんが亡くなられて、そのインパクトの大きさに驚いています。私も「8時だよ、全員集合!」を見ていた子供の一人ですが、いつの間にかドリフターズがどうなったのかもわからず、志村けんのコントも知らず、大人になりました。

台湾の蔡英文総統の追悼の言葉が話題になりましたが、そういえば、と思い当たる節がありました。

台北に住んだ半年の間、週一回は師範大学で中国語の個人レッスンを受けていました。同世代の親日の先生で、日本各地の名物料理や美味しいお店、美容関係については私よりも詳しい人でした。ある時、彼女が、台湾のファミマのおでんの話をしました。おでんの汁はタダだから、若い女の子二人が喉が渇いたといってそれを飲んだ、あなたはどう思う?という話です。どう思うも何も、ダメでしょ・・・日本ではそういうことないの?と聞かれて、「ない。そもそも(たぶん・・・)日本では店員さんがよそってくれるから汁だけ飲む状況は発生しない」と言いきりました(日本のファミマでおでんを買ったことがないので実は知らない)。すると、中国語の先生は、「うーん、私もこの若者は変だと思うわ。でも日本には「変なおじさん」がいるでしょ」と言いました。「確かに、それはいるわ。街中に変なおじさん、おばさんは結構多いかも」と言いましたら、先生が「あれ?」という顔をして、その話題はそこで終わったのです。

今考えると、彼女はきっと志村けんのことを言ったのではないかと思います。「変なおじさん」の所だけ日本語で言いましたから、それはきっと彼女にとってワンフレーズだったわけです。でも、私は奇怪的歐吉桑と受け取ってしまいました。昨日まで「変なおじさん」というコントを知らなかったからですが、もう一つ理由があるような気がします。

中国語で志村けんさんのニュースを読むと、怪叔叔とあります。怪や怪怪は、台湾の会話でよく聞く形容詞です。奇怪と怪の間にちょっと距離があるような、ないような。

中国語の先生は、私が志村けん「も」知らないことに瞬時に気づいて話題を変えたのではないかと思います。

でも、その頃の私にとって、怪は台湾人が話す中国語の一つであって、私の語彙ではなかったのです。

志村けんさん、ボーダーレスな仕事をする人だったわけですね。ご冥福を祈ります。あなたのおかげで怪はもう私の言葉になりました。