我的杯子に詰め込まれた我的輩子の話です。

風になったと思う

昨日の朝一番の便で台湾から戻り、そのまま仕事をして、自宅に戻ったのは夕飯を作るには遅すぎる時間でした。

今回、とても頑張ったと、自分をほめてあげたい。出発前の2日間寝込んでいたくせに、台北のホテルで一晩休み、花蓮に向かう列車の中でほぼ回復し、その勢いで花蓮からバスで南下して新荘へ着く頃にはすっかり元気になっていました。なんでだろう。台湾に来ると元気をチャージできます。

楽しい旅になったのは、バスを降りた時に大きく手を振って出迎えてくれた光織屋の方のおかげではないかと思います。彼女と、大きな2匹の犬がワンワン吠えながら出迎えてくれました。4歳になる台湾土狗は、ひとしきり私のにおいを嗅いだ後はすっかり大人しくなり、ピタッとくっついてきたり、前脚を片方ずつ上げて握手しようと何度も誘ってきたり、室内を移動すれば後ろからついて来たりと、おもてなし術を心得ているようです。

工房に入ると、前日の散歩中に拾って来たという子犬が2匹じゃれ合っていて、上階のテラスに行くと生後一月という子猫が2匹走り回っていました。

工房からはモノづくりの煙がもくもくと上がり、寡黙な人たちが美しくて繊細だけれども力の要る作業を静かに進めていました。ここでは、クバラン族の伝統漁具の魚筌(SANKU)を使った工芸品を作っています。材料の竹も裏山から自分たちで切ってくるのだそうです。

上階の椅子に座ってひとしきり話をした後は、帰りのバスもすぐにはなかったことからお昼を食べて行くことになり、用意ができるまで、風に吹かれ、波の音に耳を澄ませ、猫や犬と戯れて過ごしました。

沖縄の島バナナと同じ種類のバナナを頂き、その皮は肥料用の生ごみとします。海側が一面大きく開け放たれた、屋根付きテラスのような室内には、ところどころに月桃の葉で編んだ籠や座布団があり、至る所に樹皮を薄く延ばして作ったランプシェードが飾られています。シェードの下に延びるのは、大小さまざまの竹製SANKUのランプです。樹皮を薄く延ばすのは、1,2時間もあればできる作業なのだそうです。樹皮と天然顔料で作った、小さなショルダーバッグは、ここで研修した学生さんの作品です。

子猫たちは、1メートルほどの高さのSANKUの下にもぐり込んで昼寝をしたり、テーブル下のダンボールでかくれんぼをしたり。ご飯を食べた後は樹皮の切れ端をおもちゃにして一人遊びをしていました。

この工房を訪れる人はまだそれほど多くないようです。最近はニュージーランドマオリ族との交流があるとのことでしたが、部外者で賑わうような観光地ではありません。この日は私一人がお客さん。ゆっくりと話を聞き、花蓮市内で買って来たというチーズケーキと台湾茶を頂き、猫と犬と遊び、すっかり親戚の家に来た気分になりました。

工房の後継者と期待される若者が買って来てくれた米糕とスープで、職人さんたちと一緒にランチをしました。「これからは国際化だからね、若い人には英語で説明できるようになってほしいのよね」という言葉に「好!(まかせとけ)」と苦笑しながらお昼を食べる青年は、物静かで優しくて、いい子だなあと思いながら見ていました。

帰り際、島バナナをたくさん持たせて頂き、バスが来るまで停留所でお喋りにつき合ってもらい、バスに乗り込む私の真後ろを大きな犬が見送ってくれ(そのままドアの真横に寝そべってしまって、運転手さんはすぐに発車できなかった)、工房の方は運転手に「この子(犬)も乗りたいんだけど料金いくら?」などと冗談を言っていました。

バスの中はおじいちゃんとおばあちゃんばかり。それはこの地域の厳しい現実でもありますが、だからこそのゆったりした時間の流れがあります。

そういえば、光織屋でこんな話を聞きました。

クバラン族は、例えば年末の儀式に家族以外は参加できないとか、いくつか排他的なルールが残っている。それは文化や伝統の継承者を育てるという意味では障害になってしまう。一方、台東の都蘭は外から移住してくる人が多く、部外者でも希望すれば地域の行事に参加できる。地域に受け入れて貰った部外者は一定の貢献が求められるようになるけれども、この仕組みは今の時代に合っていると思う。ただ、クバランが排他的なのは理由があって、例えば家族だけで行うべきとされている行事に外の人間が参加すると悪いことが起きると信じられているから。彼らは信仰を大事にしているのだ、という話です。

都蘭は9月に訪れましたが、地域のコミュニティのことまではわかりません。ただ、10月に訪れた久高島の現状と照らし合わせて、興味深い話だと思いました。

棚田を見て帰ればよいと勧められたのですが、雨が強くなってきたので寄り道せずに花蓮市内に戻りました。でも、あまりに嬉しかったので、駅からホテルに帰る道すがら、聖天宮にお詣りしました。

余計なものがない豊かさを実感できる新荘で、海から吹く風にさらされていると、自分も風になってもうどこへでも行けるような気になります。