我的杯子に詰め込まれた我的輩子の話です。

距離

夫婦にはそれぞれ独特の距離感があるのだと、あるカップルの後ろを歩きながら思いました。マンションのゲートから、30センチほどの距離をあけて最初に夫が、次に妻が出て来て、ほぼ横並びに歩き始めた二人の距離は1メートル以上離れていました。

会話もなく、あれ、もしかしたら他人だった?と思っていたら、二人の横を逆向きに自転車が走ると、カップルの距離はだんだん近づいて30センチを切り、少し速度が落ちて、動詞だけが明瞭な会話が始まりました。何か問われた相手の返事は風に吹かれながら「うん?」「うん」。

老親を振り返れば、入退院を挟むと相手がいてくれることのありがたみが実感されるのか、何となく猫みたいに寄り添っています。

夫婦の距離は誰にもわかりません。妻は、夫に従っているつもりでいて、夫が目の前にいない時には「お父さんはわかってない」とつぶやいたりする。夫には、塩を入れた薄味の「お母さん」の卵焼きも悪くないけれど、醤油と砂糖で作った「おとーさんのおかーさん」の卵焼きが食べたいという思いをずっと隠してきた過去がある。成人した子どもは、そんなものかなあと思いつつ、どうでも良さそうな事にも思えて、いい加減にしてぇと思っていたりする。試しに醤油と砂糖で卵焼きを焼いて二人に食べさせたら、「懐かしい。おばあちゃんの味に似てる」と、母の母の味に行きつきました。「おとーさんのおかーさん」は「おとーさん」が10歳の頃に亡くなったので、それは幻の味になってしまい、どうやっても再現できないようなのです。お父さん、お母さん、おばあちゃん、と呼ばれる関係性は、子どもを中心に作られたもの。それとは別の、子どもが気づかなかった夫婦の関係性。

私が生まれる前、父は義理の両親を何と呼んでいたのかしら。

私の身近な人たちはそれぞれいくつもの関係性を持っていますが、その関係性と並行して「わたくし」を持っていて、時々、時には長く、孤独や違和感や悲しみを感じることがあるようです。そんな当たり前のことを、今頃、子どもが気づいたりします。