我的杯子に詰め込まれた我的輩子の話です。

「洗骨」感想文

映画館の帰り道はまだモヤモヤとして言葉にならなかった思いが、一晩経つとどうにか形になることがあります。

私のモヤモヤは、弔いの在り方でした。

誰かが亡くなると、誰かが業者に連絡して、病院まで遺体を引き取りに来てくれたり、家に帰ったら既に祭壇が出来上がっていたり。火葬場でお骨を拾って帰ってきたら、清めの塩が用意してあって祭壇は小さく設え直されていたり。

「洗骨」には業者は出てきません。日取りを決める基準があるのかもしれませんが、家族と親族が集まってすべてを用意して持ち込みます。骨を洗う盥や水も、洗った骨を並べて乾かす敷物も、頭蓋骨を地面に置かないための小さな折り畳み椅子も、正気ではやっていられない人が飲むお酒も。時間がかかる作業だからお重に詰めたお弁当も要ります。本物の家族葬です。しかも暑い。映画ではなかったけれど、もし当日島を後にする人がいたら、時間との戦いも入って大変な戦になることでしょう。

巷で流行りの家族葬は「シンプルで楽」だから広がっているようですが、粟国の「家族葬」は家族への負担がとても大きな儀式のようです。

骨にこびりついた髪の毛の束が盥の水の中でズルっと剥がれて行く光景は、普通は怖い、気味悪いシーンです。でも、大事に抱えた頭蓋骨を手で優しく撫でるように洗うので、怖くありません。これを見ながら、生前は善人であれ、誰かを苛めるなと、邪なことを考えてしまいました。

幽霊も死者も骸骨も、随分いろいろなイメージが作られてきたので、言葉を聞いただけで怖いものと認識してしまいます。もし怖いという感情に襲われないとしたら、その人の温もりや声を知っているからでしょうか。

作られたものというならば、お葬式のイメージも手順もそうです。小さな離島では葬儀場を作るのも大変でしょうし、洗骨の風習が残っている背景には、人々の思いなのか、他の選択肢がないのか、判断しかねる所があります。けれども、高炉のスイッチではなく、時間をかけて家族を弔う様子から集落の営みを描いた「洗骨」という作品、私は好きです。

ただ、この作品には至る所に笑いがこみ上げる仕掛けがあって、哀しくて泣いているのか、おかしくて泣いているのかわからなくなってしまいます。目の周りの化粧が一番とれやすいタイプの映画ですが、観終わったら、心がすっきりします。