我的杯子に詰め込まれた我的輩子の話です。

生まれた時からあったもの

私はたぶん牛なのではないかと思うほど、物事をすぐには判断できなくて、何度も反芻しては思い返す癖があります。ちょっとしたことで反芻スイッチが入ります。

この間、テレビで「ラップと知事選 沖縄 若者たちの声」という番組を見ました。ある男の子が、基地は自分が生まれる前からそこにあったから、それがなくなったらって想像がつかない、というようなことをつぶやきました。

そうだよね。生まれる前からインフラのようにそこにあったんだものね。

彼の言葉で、中城城跡からの帰り道を思い出しました。ボランティアさんが途中のバス停まで車で送ってくれたのですが、そのバス停に向かう時、風にはためく米国旗が見えました。バス停の前にどーんと広い敷地を陣取っていた米軍関係施設の一部。国道に面して堂々と構える米軍施設は沖縄の一部。こんな施設が何ヵ所あるのでしょうね。

空から見たら、私が基地の横に立っているのが見えますか。ここにもし基地がなかったら、ここには何があったかな。そんなことをぼんやり考えながら、バスを待っていました。

そこにある基地がなくなったとしたら、そこには何が現れるのか、誰も想像できないのではないかと思ったりします。もしも、農地やお墓のあった土地が接収されていたとしたら、いま返してもらっても、農地にもできないし、お墓を作り直すわけにもいかないですよね。

経済学では、機会費用という言葉があるでしょう。自分の土地が基地の敷地に組み込まれたら、補償金はあるのかな。お金が入ったとしても、その土地をどんなふうに使うか選択する自由は奪われたままではないかしら。

沖縄の基地の話は地元の人の痛みを感じることができないという思いが壁になって、通り一遍の話以上に近づかないようにしていました。でもね、そこに立つと、あるいは、中城城跡から見下ろしてみると、ちょっと胸がざわざわしますね。本土の人は米兵の犯罪が起こる度に沖縄に注目する。でも、ここに住む人はいつも目にしていて、基地はそこにあるものとして生活する。なくなってほしいけど、無くなったらそこに何ができるの、と想像もつかない。

沖縄が抱えている問題は、基地だけじゃなくて、それ以上のもの、それ以外のもの。ラップは、基地だけじゃなくて、おきなわを見てよねって言っているように聞こえました。