我的杯子に詰め込まれた我的輩子の話です。

石垣島のことを知らない私が島で見たこと、聞いたこと

ひょんなことから、某ホテルのマネージャーNさんとお話しする機会がありました。Nさんは地元のご出身だそうで、自分にとっては日常過ぎて珍しくもなかった三線などが観光客には歓迎される、なんだか感覚のギャップはありますよ、というお話をしてくださいました。

石垣島は昔はサトウキビやパインの加工が主要産業だったけれど、今は観光が取って替わったというお話で、請福が引き受けた宮良の土地を除き、昔の工場跡地はすっかり住宅地になったとも伺いました。観光で人口が増えたとしたら、それは良かったのですね、と聞きましたら、地元が思い描いていたような発展になりました、と。ただ、そのスピードが速すぎて、ホテルもレストランもインフラが追い付いていないのです、と仰いました。二日前のことなので数字を誤っていたら申し訳ないのですが、Nさん曰く、かつては年間86万人の観光客を迎えていた石垣が、昨年は136万人、ことしは141万人をめざしているのです、どんどん人が来てくれても、泊る所がなかったら意味がない、と。

Nさんによると、観光客とホテルの付き合い方も変わったそうです。昔は「いついつ石垣に行くのだけれど、どこで何をしたらいいかな」というお問合せも多くて、ホテルマンが旅のプランを作るのに忙しかった時代があるとか。今では、外国人も含めて皆スマホで自分のプランを作って来るので、フロントで聞かれることもなくなったそうです。宿泊客とのコミュニケ―ションがなくなり、葛藤を覚えた時もあるそうです。ただ泊まるだけのホテルではありたくない、石垣に来る人が満足できるようなお手伝いがしたいというのがNさんのモットーなのだそうです。

私のように、来るなりフロントに泣きつく客は迷惑ではないかと思ったのですが、これが自分のやりたかったことです、とNさんは仰ってくれました。ただ、お節介をし過ぎると迷惑なのではないかと、そのあたりで悩むこともあるそうです。

いえいえ、一人旅、気ままな旅には、ホテルでの一言のアドバイスがとてもありがたかったりします。

今日は川平湾とやいま村から戻る途中、市内の住宅街をぶらぶら歩いてみました。三叉路が多くて、あちこちに石敢當の文字が刻み込まれていました。それにしても、人がいない。たまに歩いているのは学校帰りの小学生と、おばあちゃんくらい。5年前のガイドブックには出ていたお店が、閉店になってしまっていたりする(5年前から来たいと思っていたのに・・・)。離島ターミナル近くの天ぷら屋さんで魚の天ぷらをつまみながら、寂れ感が隠せない石垣島の現実を少し見たような気がしました。

街中ガイドというのがあると、ガイドブックに書いてあったのに、電話してみると、ガイドがなかなか手配できないのでやめました、と言われました。海ばかり見なくても、「外人」からみれば街の中にたくさん面白そうなものがあるのに、それを解説してくれる人がいない。もったいないですね。

ミンサー織の織元という女性が、若い人が習いに来るけれど長続きしないのよ、と仰いました。その方はおばあちゃんの代から3代目だそうで、織元だから私はやめるわけにはいかないのよ、と仰います。私より年上のようにお見受けしましたが、あの方の後継者はおられるのかしら。他人事ながら気になってしまいます。

私はここで二日間過ごしただけですから、見えていないものや勘違いがたくさんあるはずです。でも、二日間、見ようと努力しましたし、向こうから飛び込んで来る景色や情報もありました。来てよかったと心から思っています。