我的杯子に詰め込まれた我的輩子の話です。

All we hear is radio gaga, radio googoo

このところ映画鑑賞が続いております。

いつもはDVD派の私が1週間のうちに映画館2回は珍しいことです。

ボヘミアン・ラプソティ。あまりに評判であったのと、ちょっと落ち着かなかった金曜日の夜と、ギリギリだけど滑り込めた最終上映時間のおかげで、クイーンの物語を観ることになりました。

クイーンを知ったのはラジオ。聞き始めたのはいつかはっきりしませんが、中学に入った頃には帰宅してFENを聞くのが日課になっていました。周りの大人は英語がわからなかったから、私がどんな曲を聴いていても誰も気にしませんでした。うちの隣は英語塾でしたが、そこの先生は学校英語専門でしたから、FENなど聞いていなかったと思います。その先生の息子さんは英語を使いこなせる青年でしたが、私が毎日マイケルやpart  time loverやクイーンを聴いていたとは思いもしなかったようです。

最初は歌詞が聞き取れなくて、何度も聴いてスペルを想像しながら書き出してみて、辞書を引きながら単語を特定し、単語を繋げて文章にして、スラングもわからないくせに再び辞書を片手に意味を推測するという気の遠くなる作業が何だか楽しくて、時間を忘れて没頭することもありました。とはいえ、人生経験も語学力も足りない子供に歌詞の魅力などわかりません。

映画の中で、そして映画の後にユーチューブで曲を聴き、耳が覚えている曲と辞書を引かなくてもわかるようになった歌詞が2019年にようやく合わさって、クイーンの魅力に気づいたのです。子供の頃にこの曲を理解できていたら、人生ちょっと違っていたのではないかしら。

そういうわけで、今日は会議の間もずっとRadio gagaとMama...Life had just begun...が頭の中で鳴り続けておりました。平和ですね。

「洗骨」感想文

映画館の帰り道はまだモヤモヤとして言葉にならなかった思いが、一晩経つとどうにか形になることがあります。

私のモヤモヤは、弔いの在り方でした。

誰かが亡くなると、誰かが業者に連絡して、病院まで遺体を引き取りに来てくれたり、家に帰ったら既に祭壇が出来上がっていたり。火葬場でお骨を拾って帰ってきたら、清めの塩が用意してあって祭壇は小さく設え直されていたり。

「洗骨」には業者は出てきません。日取りを決める基準があるのかもしれませんが、家族と親族が集まってすべてを用意して持ち込みます。骨を洗う盥や水も、洗った骨を並べて乾かす敷物も、頭蓋骨を地面に置かないための小さな折り畳み椅子も、正気ではやっていられない人が飲むお酒も。時間がかかる作業だからお重に詰めたお弁当も要ります。本物の家族葬です。しかも暑い。映画ではなかったけれど、もし当日島を後にする人がいたら、時間との戦いも入って大変な戦になることでしょう。

巷で流行りの家族葬は「シンプルで楽」だから広がっているようですが、粟国の「家族葬」は家族への負担がとても大きな儀式のようです。

骨にこびりついた髪の毛の束が盥の水の中でズルっと剥がれて行く光景は、普通は怖い、気味悪いシーンです。でも、大事に抱えた頭蓋骨を手で優しく撫でるように洗うので、怖くありません。これを見ながら、生前は善人であれ、誰かを苛めるなと、邪なことを考えてしまいました。

幽霊も死者も骸骨も、随分いろいろなイメージが作られてきたので、言葉を聞いただけで怖いものと認識してしまいます。もし怖いという感情に襲われないとしたら、その人の温もりや声を知っているからでしょうか。

作られたものというならば、お葬式のイメージも手順もそうです。小さな離島では葬儀場を作るのも大変でしょうし、洗骨の風習が残っている背景には、人々の思いなのか、他の選択肢がないのか、判断しかねる所があります。けれども、高炉のスイッチではなく、時間をかけて家族を弔う様子から集落の営みを描いた「洗骨」という作品、私は好きです。

ただ、この作品には至る所に笑いがこみ上げる仕掛けがあって、哀しくて泣いているのか、おかしくて泣いているのかわからなくなってしまいます。目の周りの化粧が一番とれやすいタイプの映画ですが、観終わったら、心がすっきりします。

パクチーと頭蓋骨

照屋年之監督の「洗骨」を観ました。粟国に住んでみたくなるような話です。

最初から最後まで、観客席にはクスクス笑いと鼻を啜る音が入り混じっていました。笑いと笑いを繋ぐのがすすり泣き、涙と涙を繋ぐのが笑い。

残念ながら私は映画を評するほど沖縄という場所を知りませんので、印象に残ったことをいくつか書き連ねてみます。

まずは死んだ妻の棺桶。膝を抱えた状態で入棺するスタイルは今も健在なのでしょうか。沖縄ではありませんが、父が子供の頃に、丸い大きな桶(樽?)に膝を抱えて座る形の死者を入れて土葬し、数年後に掘り出して埋葬し直したという話を聞いたことがあります。とても怖かったそうです。 

幻想的であったのは、時代を特定するのが難しい島の生活。今もそうなのか、過去の話なのか、見分けがつきません。スマホだけが2010年代後半を示唆しているような、それを除けばいつの時代設定でも成立しそうな話に思えます。猫は出てきませんが、山羊が出てきます。 

気弱で優しい、傷つきやすいお父さん、息子、おじさん。男の人ってこんなにデリケートだったのか、沖縄の男だからそうなのか。ちょっと私は、男性に対して無礼であったかもしれません。男性は強くて大きいからちょっとくらい蹴飛ばしても大丈夫と、今までどこかで思ってたなあ。

その気弱な男の部屋に並んだ二組の布団。自分の布団と隙間を作らずきれいに整えられた妻の布団。呆れるし、そういう男は愛しくもなります。

 じゅーしーの上にパクチーを少し乗せて、美味しそうにかき込む奥田瑛二パクチーが気になって仕方なかったのです。ああいう食べ方もいいなあと思いながら。

 椿油を塗ることには、どんな意味があるのでしょうか。椿油はいつからこの島で使われるようになったのか、知りたくなります。私の祖母は髪に撫でつけていた椿油、万能油でしょうか。

 そして、頭蓋骨。棺桶の中を映すとは思わなかったのです。棺桶の中を映した瞬間、客席からも驚愕の声なき声が聞こえました。私もその理由がわかります。私の知っている頭蓋骨は、親族のそれらは、だいたい白かったのです。白くて、薄くて、少し力が入ると割れたり粉々になってしまうくらいしっかり焼かれた熱い骨。それとはまったく異なる骨が出てきたから、驚いたのです。人間の骨っていつも白いわけではないことを知りました。即身仏を見たこともあるので、白くない骨も見たことがあるはずですが、身内の骨というものは火葬場でのきれいなまでの白骨という観念が脳裏にすり込まれていたのです。

その日に消え去る命と生まれて来る命、生まれた命。日々、一瞬一時たりとも生まれたり消えたりすることが途切れるわけではないのですが、ことさら生と死の偶然に思いを馳せたくなる日もあります。

映画の素晴らしいラストシーン、今日生まれた命に祝福を。

パクチーよ、永遠に。できれば猫も見たかった。

Happy Birthday to Me

1歳になりました。早いですね。

何となく始めたwodebeiziは、ブログというより独り言の、半日記的な空間になりました。人は書くことで落ち着きを取り戻したり、悲しみを癒したり、考えをまとめることができると感じた一年でした。

我的杯子の中を覗き込んでみると、本当にいろいろありました。

新しい仕事を引き受けるにあたって、これまで10年近く携わってきた業務を手放すことになりました。何もやって来なかったと思っていましたが、振り返ってみると、年に1,2回は企画を出して実施していました。その半分は海外から人を招聘したので面倒なこともたくさんありましたが、毎回予算をつけて頂いたことに感謝しています。おかげで人脈も広がり、学ぶことも多く、楽しかったように思います。でも、ここも潮時、そろそろ世代交代しないといけません。

私の新しい仕事は、前任者が築いたものを引き継いでいくのか、変えていくのか、まだ何もビジョンはありません。当面は仕事を覚えるのに精いっぱいでしょう。考えが浅い、人間関係に弱い、頑固、関心のないことはさっぱり頭に入って来ない。私の欠点はたくさんあります。それでも担ぎ上げられたということは、とりあえず担がれるくらいの使い道はあるのではないでしょうか。

自分の時間をどう作るか、いえ、自分にどう余裕を持たせるか。締め切りに追われないようにしないと、パニックになりそうです。締め切りに追われないためには、サクサク仕事を済ませるしかないですね。悩む前にキーボードを叩け、ですね。

公務でもプライベートでも旅好き、行くなら長く行きたい私にとって、管理職なんて本当に気が重いです。でも、この1年くらいの自分の変化を見ていると、若い時と同じ体力勝負の旅はそろそろ卒業の時期。自分の新しい生活パターンを作る調整期と思って2年間を過ごすのも悪くないかもしれません。そう考えるようにしてみても、今まで享受していた自由な時間や行動がある程度制限されることに、大きな不安と焦燥を感じています。

でも、やってみないとわからない。こいつでは拙い、と周囲が本気で判断したらそこでお役御免になるでしょう。そこまでは頑張ってみようかな。ヨガもエアロビも、こういう時こそ精神安定剤のように私を支えてくれます。

そしてとりあえず、新しい仕事が始まってすぐに花蓮に行くことを了承して貰いました。そこで気持を落ち着けてから、帰ったら頑張りますね。

まずはwodebeiziに、1年続いておめでとう。これからもよろしくね。

春節快到了

先日、上海でお世話になった先生の文章を読む機会があり、新年の挨拶にかこつけて3年ぶりに連絡をとってみました。

10年近く前、上海に半年滞在してみたいから誰か紹介して、と北京の友人にお願いした時、友人が会わせてくれたのがこの先生でした。

学者肌で、日本語はできなくて、あまり日本食も好きではなさそうで、お酒も煙草も嗜まれない方。なのに友人が面会場所に設定したのは日本の居酒屋で、先生はちょっと居心地が悪そうでした。会っていきなり「你的要求是什么?」と言われ、率直な物言いにびっくりしましたが、おかげで復旦に受け入れて頂くことになりました。

私が上海にいたのは2012年4月から9月。ちょうど、石原発言で尖閣の問題が先鋭化し、反日感情が高まった時期です。8月、9月になると、留学先で知り合った日本人は日本人街へ避難していきました。日本人の女子留学生が、真夏なのに厚手のパーカーをすっぽり被って顔を隠しながら歩いていました。いつもと同じ生活を続けた私に、いつもと変わらず接してくれたのは、権力に関心のない方々、そしてこの先生でした。

当時、私はこの先生と英語でやり取りしていました。中国語が下手なくせに、文法的に正しい格式ばった中国語を使おうとして、話すのも書くのも躊躇われたからです。今、私は短い手紙なら中国語の方が書きやすい。ブロークン中国語です。台湾に居たことを報告したら、台湾滞在経験がある先生は、台湾風の中国語で返信してくれました。

あれから6年半。助けてほしい時には声をあげてみなさいと、教えてくれたのは中国で、台湾でもそれは同じことでした。小さなことですが、日本では、人に迷惑をかけないようにしなさいと教えられます。ずっと迷惑をかけないように気をつけていると、人に甘えるのが下手になります。

2月5日は春節です。どうか皆さん、新しい年も健康で、良いお年をお迎えください。

デビュー間近

今日、お返事したこと。

一番下のレベルですが、管理職の仲間入りをお受けしました。

ずっとやりたくなかった仕事。権力に関心がないのです。自由な時間があってやりたいことが出来れば、それでよかったのです。

周りはあまり説明をしてくれる人たちではありません。楽ではないだろうなと思っています。故意に足を引っ張る人はあまり多くないと思いますが、サポートしてくれる人がどのくらいいるか、サポーターと上手くコミュニケーションがとれるか、不安です。

それでも二つ返事で引き受けたのは、次の世代に回していかないといけないからです。私の部署では、女性の管理職、初めてなのです。たぶん、これが私の役割だと思います。

それでも気が重いですから、平成最後と新元号最初のラベルがつく、ダブル当たりくじ!と思うことにしました。だって二度とない機会でしょ。

謙虚でいると潰されそうなので、少しタフにならないといけないかもしれません。1980年代の話みたいに聞こえますが、これが現実です。